1
学校で配られた読み方の手引きのことは、今でもよく覚えている。表紙の色も、先生がそれを配りながら「困ったらここに戻りなさい」と言った声の調子も、はっきり思い出せる。ところが、そこに何が書いてあったのかと自分に問うと、中身は一行も浮かんでこない。それとは反対に、ある授業で物語を読み違えたときのことは、教室の空気まで細かく思い出せるのである。
2
その日、私は登場人物の気持ちについて、手を挙げて自分の読みを発表した。考え抜いたつもりだったので、声にはかなりの自信がこもっていたと思う。すると後ろの席の級友が、その場面の少し前にある一行はどう読むのかと、静かに尋ねた。私はその一行をまったく読み飛ばしていて、彼の問いが、私の読みの見落としをそのまま明らかにしたのである。席に着いてからもしばらく、顔が熱くて仕方がなかった。
3
あのとき、私はただ恥をかいて終わったわけではなかった。家に帰って一行を読み直すと、自分の読みがどこまで届いていて、どこから先に届いていなかったのか、その境目がはっきりと見えた。いわば、[ア]自分の読みの地図に空いた穴の場所を知ったのである。私は物語を初めから読み直し、人物の言葉を一つずつ確かめながら、その穴をふさいでいった。
4
学ぶことについて、私たちはふつう、正しい答えを教われば、それがそのまま自分のものになると考えている。( イ )、教わった答えの多くは、自分の見当とぶつかることのないまま素通りし、身につかずに消えていく。手引きに並んでいた言葉も、おそらくそうして私の前を通り過ぎていったのだろう。[ウ]皮肉なことに、先生がいちばん伝えたかったはずの中身ほど、私の手元には残っていない。
5
だとすれば、学びの手ごたえは、自分の見当が外れたところから生まれてくるのだろう。学ぶとは、自分で見当を立て、それが外れた理由を確かめ、ものの見方を組み直すという往復を、何度も重ねていくことである。読み違えたあの一行の記憶がいつまでも消えないのは、その往復を一度、自分の手で通り抜けたからだ。手引きの言葉もまた、いつか自分の見当とぶつかったときに、ようやく意味を持ちはじめるのだと思う。

